この辺の地域、明日は“秋祭り”らしいです。
特になにかお祭りがあるわけではなく(昔はなにか催しがあったのかもしれないけれど)、
仕事をしないで、それぞれ“ごちそう”でも食べて、稲刈り前に体を休めるんだそうです。
夏もこれでおしまい。
「四季の行事、歳時記的なこと、人の生き死に、成長、衰退への考え方など、それは循環を繰り返している自然の摂理にぴったり一致していた。人間が本当に知るべきことは何なのかを考えるとき、そこにもヒントがある気がする。」(「悩む力」姜尚中)
ビールでも飲みながら「人間が本当に知るべきことは何なのか」を考えようかな。
「悩む力」姜尚中、集英社新書、2008年
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・悩みの海を抱えていたからこそ、生きる意味への意志がより萎えることがなかった。
誰にでも具わっている「悩む力」にこそ、生きる意味への意志が宿っている。
・わたしとは何者か?
・人は何を知るべきなのか?
・わたしは何を信じたらいいのか?
・人はなぜ働くのか?
・何が生きる力になるのか?
・わたしがわたしとして生きていく意味は?
・自我というものは他者との「相互承認」の産物。承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要がある。
・医者は手段を尽くして患者の病気を治し、生命を維持することのみに努力を傾ける。たとえその患者が苦痛から開放を望んでいても、患者の家族がそれを望んでいても、患者が治療代を払えない貧しい人であっても関係ない。すなわち、科学はその行為の究極的、本来的な意味について何も答えない。
・トルストイ:科学はわれわれが何をすべきかということについて何も教えてくれないし、教えてくれないばかりか、人間の行為がもともと持っていた大切な意味をどんどん奪っていくと考えた。
・身体感覚を通した知のあり方。「土発的」な知(自然の移ろいの中に生きて、そこから発するような知)。
・四季の行事、歳時記的なこと、人の生き死に、成長、衰退への考え方など、それは循環を繰り返している自然の摂理にぴったり一致していた。人間が本当に知るべきことは何なのかを考えるとき、そこにもヒントがある気がする。
・自分の身の丈にあわせて限定していく、そして、その世界にあるものについて、ほぼ知悉できているような知のあり方。人は何を知るべきなのか、という問題はどんな社会が望ましいかということともつながる。
・人はなぜ働くのか?社会の中で、自分の存在を認められる。他者からのアテンション、他者へのアテンション。「承認のまなざし」は、家族ではなく、社会的な他者から与えられる必要がある。
・人間とういのは、「自分が自分として生きるために働く」。「自分が社会の中で生きていていい」という実感を持つためには、働くしかない。
・V.E.フランクル:人は相当の苦悩にも耐える力を持っているが、意味の喪失には耐えられない。
・意味を確信できないと、人は絶望的になる。
・何が生きる力になるのか?
個人の内面の充足、すなわち自我、心の問題に帰結する。
やはり他者とのつながりが必要。相互承認の中でしか、人は生きられない。相互承認によってしか、自我はありえない。
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