田んぼや畑の草は、刈っても刈っても、また生えてきます。
冬、掘っても掘っても、どけてもどけても、降ってくる雪もまた同じです。
「せっかくあんなにがんばったのに、また・・・」。
これは一体何なんだろう、どういうことなんだろう、と時に困惑してしまいます。
あまりに意味がわからず、きっとこれまでの考え方や価値観ではとらえることができないような新しい意味があるのではないかとちょっと期待したりもしました。
それで最近気づいたこと。
それは、この人間の都合に関係なく、降ってくる雪や、生えてくる草、かいても、刈っても、またそこに現れるということは、それ自体が《循環している》ということであり、それが《いのち》であるということです。
僕たちは、時という概念を持って、勝手に“開始”や“完了”を設定したりするけれど、自然の循環、いのちの流れの営みにおいては、そんなものは関係ないんでしょう。
変化し、移り行き、循環してるだけ。
雪や草をきれいにしたら何かに成る、という生産活動や経済活動から切り離し、僕らはそんな循環において、はじまりも終わりもなく、ただその状態につきそい、尽くすだけ。
そこに意味があろうと、意義がなかろうと。
自然とともに暮らすとはそういうことなんだろうと思います。