苗を作り始めたころにはまだたくさん積もっていました雪はこの2ヶ月の間にすっかり消え、田んぼの水も徐々に暖かくなりました。
あちこちにあったカエルの卵は小さくて黒いおたまじゃくしになり、そのうちおたまじゃくしに足が生えてカエルになり、
アメンボとかゲンゴロウとか、なんか足の長い飛ぶ虫とかの、カエルが食べる小さな虫もたくさんいるし、そのカエルを食べるヘビもたまに見かけます。
幼虫だかなんだかニョロニョロしたのやら、最近は、しおからトンボやきれいな糸トンボが産卵しているのをよく見ます。
ほんと、田んぼの中や周辺にいる生きものの数ってどのくらいなんだろうなぁ・・。
生きものがいない場所なんか、たぶんない。
なので、そんな田の中で、特に機械を使って仕事しているとたくさんの生きものを殺してしまいます。
自分の足で、踏んでしまったり、つぶしてしまったりすることも多々あります。
ごめんねぇ、なんてひとりごちたりして。
殺さなくても、田んぼの中で死んでいる虫なんかはたくさんいます。
今日も丸まって死んでいるトンボをじっと見てしまいました。
ほんと、お米ができる大地は、たくさんのいのちで成り立ってて、感謝だよなぁ。。
「僕なりに稲を一生けんめい育てて、田の中で生き死んでいく生きものたちの命を、おいしいお米に結実させよう」、作業をしながらふとそう思いました。
でも考えてみると、田の中の生きものたちは、お米となって僕ら人間においしく食べられるためにそこに生きているわけではない・・か。
そこで一生を送って土に還り、お米のおいしさとなって食され、たとえ僕らのいのちの一部になったとしても、それが田の中の生きものたちが生きる意味や目的ではないはず。
生きものたちは、そのいのちをいただいた僕らを通して、何かに実を結ぶということなんだろうか?
もし、どうやって実を結ぶのかが、僕らの意思次第、行動次第だとしたら、僕らはどうあるべきなんだろう?
自分は、生きものたちの営みが基礎となるお米をいただくのだから、彼らのいのちの目的にも沿うべきなんじゃないだろうか・・。
生きものやお米のいのちに目的に沿うことは・・?
それは、本当のところで僕たち自身のいのちが望んでいることなんじゃないか、とも思ったり。
では、全部を含む大いなるいのちの目的ってなんだ・・?
僕らは、人間としての身勝手さや自我の求めるままに生きるのではなく、日々いただくたくさんの生きもののいのちを、どうこの世界に結実させていくのかを、自分の意志によって果たさねばならないんじゃないか、なんて思います。
まあ、カエルも、とんぼも、ホタルも、ヘビも、タニシも、草花たちも、実は「目的」なんてそんな難しいこと考えずに、楽に、素直に生きてるんだろうけれどね。
そうそう、いのちの声に“素直に”生きるのがいいのかな・・。
2ヶ月後、稲が穂を結ぶのがとても楽しみです。