僕たちに見えているこの世界、さまざまな事象、
すべては僕ら人間が、脳で認識できることだけを切り取って、構成(解釈)し、
それを「事実」として見ているもの。
例えば、感じ取れない音や光の波長、とても大きな世界の視野やとても小さな世界の視野、人間の寿命では追いつかない時間の中での変化や、「概念」にじゃまされて認識できないいろいろ、などなど・・
果たして、僕らには分かり得ない世界の本当の姿って、どんななんだろう。
決して理解できることがないとしても、人間がわかる「事実」=「真実」と決めつけないで、
「人智を越える世界」に対して、常に感性を働かしていたいものです。
《根本的な変化(進歩)は、経験や思考の蓄積や包括によって起こるというよりも、主観側の「見方」「考え方」を規定している前提構造が変わったときにこそ起こるもの。》
いつかまた人間の“前提構造”が変わるときが来るのかな。
『新しい科学論―「事実」は理論をたおせるか (ブルーバックス)』、村上陽一郎、講談社 、1979年
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・帰納:二つの観察データからひとつの仮説を思いつく過程。
X1の足は三本である+X2の足も三本である。
→帰納=すべてのXの足は三本である(仮説)
・演繹:非常に多くの事柄を含む前提から出発してその中に含まれている数少ないことを言い当てる。
すべてのXの足は三本である(仮説)
→演繹=X3の足も三本である。・科学の基本的性格は、まず、帰納と演繹の繰り返し、経験的観察と論理的導出の円環的ならせん運動によって、ありそうと思われる仮説の確からしさを増大させていく営みとして考えることができるでしょう。 55
・確証と反証の非対称性:否定の力は肯定の力より強い。9999のデータによって支持されていた仮説でも、たった一つの(仮説に合致しないデータ)だけでダメになってしまう。58
・知識の進歩主義:自然を捉えるいろいろな法則類は全体として「より正しい」方に向かって、「より真理に近い」方に向かって少しずつではあっても確実に進んでいる。観察データの蓄積性。
・偏見や先入観:観察データそのものは本来、外界から「与えられるもの」ですから、人間にとってはどうしようもないはずですが、ところが、人間の窓(穴)の方がいろいろな誤った考え方や正しくない先入観などに支配されて曇らされていると、そこから流れ込んでくるデータを使っては、いくら正しく帰納の操作が働いたとしても、そこで得られる法則は「まちがった」「正しくない」ものとなるのは当然ではないでしょうか。86
・ヨーロッパ中世はキリスト教の宗教的な支配が強力で、宗教的な迷妄を人々に吹き込んで、非科学的な先入観や思い込みを強固に造り出してしまっていた、だから人々は、まともに目を見開いて(穴を開けて)真実の外界を見ることができないのだった。
そのような誤った態度や先入観を取り除き、ひたすらありのままの外界を見て取れるように、いわば「穴」の掃除をしたのが「近代化」の過程の果たした成果であった。86・ヨーロッパ文化の根幹をなしているキリスト教が、自然科学がヨーロッパに生まれる直接的な原因になっているのではないか。191
・ガリレオは最初から最後まで本気で教皇庁やカトリック教会に楯つく気など毛頭なかった人、それどころかガリレオは自分をカトリック教会に属するインテリの代表選手のように思い込んでいた節まであります。105・もし本当に彼らが、近代自然科学の基礎を造り上げた、という考え方に誤りがないとすれば、少なくとも、近代自然科学が、中世の宗教的迷妄の否定、キリスト教的偏見の打破、除去、あるいはそこからの脱出によって築かれたものだ、という常識的な考え方は、訂正されなければなりますまい。111
・人間というバケツに開いた穴は、ある特別の形をしていて、その形に見合ったものだけを取り込むのだ、その形の穴を通り抜けるものだけをわたくしどもは認知する。152
・「天然色」とは、人間の視覚の限界にはっきり規定された「人間色」でしかない。このことは視覚の世界では、人間の視覚の発達が他の動物に比してかなり高度である、と信じられているのが原因でなかなか納得しがたいものです。
・ことばによって「見る」ものが支配されている。172
・人間が「事実」を造り出している 178
・ゲシュタルト変換:「事実」を観るための前提構造が変わったとき、今までその図柄のなかにちゃんとおさまっていたその「事実」が、どうしても収まり悪く感じられてくる。190
・主観の側の意識構造の変化 190
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