親愛なるみなさんへ
先日まさやが僕のところに来ていいました。「あのね、困ったことがあるの。」「なあに?」「まさやね、おともだちがいないの・・。」
近所に、関東からやってきた田舎体験にやってきた小学生たちが泊まっていたらしく、まさやはその楽しそうな子たちを見たらしいのです。
この近所には小さな子が一人もいないこと、そして今は無収入であるが故に保育園に入れてあげられてないことで、新潟に越して来てから三ヶ月、彼にはまだ友だちがいません。
毎日一緒にいて、雪堀りをしたりお風呂に入ったりはしてますが、忙しさ(自分がやりたいこと)を優先して彼と十分に遊んであげられてない感もあったので、彼の“困ったこと”を聞いた時、僕はとてもとても切なくなってしまいました。
そんなこのごろ、親友の夫婦がわが家を訪ねてくれました。これまで家の修築に関することをいろいろ助言や支援をくれた友人。今回も壁塗りやタイル貼りなどの作業を僕らに手取り足取り教えつつ一緒にやってくれました。作業だけでなく、子どもたちと遊んでくれたり、一緒に食べたり飲んだり語ったり、とても楽しい時間でした。
もちろん、まさやもおおよろこび。超ハイテンションで歌ったり踊ったり、一緒に壁塗りをたのしんだり、ほんとうれしそうでした。ただ、そのエキサイティングな感じが、普段友だちと遊んでない反動じゃないかと思うとやっぱり切ないというか、彼に申し訳ないというか、、そんな気持ちが楽しさの影にちょっぴりだけありました。
しかし、僕のそんな気持ちを汲み取ってか、友人はこんな一言を言ってくれました。
「こうやってまさがずっと家にいて、まさやと一緒にいることは、人生の中でとても大事な時期なんじゃないかなぁ」。
そうだ、まったくその通り。保育園に入れてあげられてない、なかなか集中して遊んであげられてない、そんな自分を責める気持ちのためにすっかり見失ってしまっていたけれど、考えてみれば、先にも後にもこんなに彼と“一緒にいること”ができるのは今だけなのかもしれない。遊びのリクエストをしぶしぶ断ったり、彼の言動を叱ったり、わがままを聞いてあげたり、ただ一緒にご飯を食べたり。。そんな単純なことすらも、これまではままならなかった。春になって保育園に通い始めたらこういう時間も少なくなるだろう。僕も働きはじめたらなおさらそういうことは減っていくだろう。だとすると、今のこの時間は本当に二度とないかけがえのない時なのかもしれない。
フィリピンの貧困地区を訪れ、「大切なものは?」と尋ねると、とてもシンプルに「家族」と返ってきます。どんなに貧しくとも小さな家だとも、家族と“一緒にいれる”こと、それが彼らにとっての「幸せ」。僕はそんな大切にしたい幸せを教えてもらったはずでした。
ほんと、人はすぐ迷子になるんだね。大切なものを簡単に見失ってしまいます。いや、もしかしたら大切なものはいつも足元にあるのかもしれません。ただそれを見い出せていないだけかもしれません。
《どんなに困難や苦境にいようとも、今足元にある大切なもの・価値や意味を見出すこと》
ちょっとしばらくの間、意識してがんばってみようと思います。
わたなべまさゆき